水島教会献堂50周年記念  黙想会(後半)

  さあ、立て、ここから出かけよう

9月13日(土)から14日(日)に赤波江健一神父(聖パウロ修道会)を迎え水島教会にて黙想会が開かれました。今回はその後半です。

人々のために聖体になりなさい

わたしたち自身が聖体にならなければ、キリストの体と血がわたしたちの体と血にならなければ、全ての聖体祭儀や信心は不完全です。 (教皇ベネディクト16世)水島教会50周年記念を迎える準備のノベナで与えられた名誉教皇ベネディクト16世の言葉ですね。

生きた聖櫃となる

さて、『人々のために聖体になりなさい』という水島教会のヴィジョンについてわたしなりにお話ししたいと思います。

聖教皇ヨハネパウロ2世の最後の回勅「教会にいのちを与える聖体」の中の第6章に「聖体に生かされた女性であるマリアの学びやで」があります。 そこで聖人はマリアと聖体には切っても切れない大切な関係があると言っています。

マリアへのお告げ

大天使ガブリエルがマリアに挨拶します。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」マリアは「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。

マリアはこの天使の言葉を聞いて、全ての不安とおそれと理解できないことすべてを聖霊に委ねて、お言葉通りこの身になりますようにと言って引き受けました。 これはマリアの十字架ですね。マリアは、胎に神の子を宿す瞬間に人類の歴史上はじめて生きた聖櫃になりました。 生きた聖櫃となって神の子を宿したマリアは、その最初の仕事としてエリザベトとその胎の子ヨハネにイエスを運ぶ人となりました。 すなわち、最初の聖体を運ぶ人になったのです。

わたしたちはミサの時にアーメンとこたえて聖体拝領しますが、そのアーメンはマリアの「お言葉どおり、この身に成りますように」と密接な関係があります。 わたしたちがアーメンと答えて聖体を拝領するときに、マリアはわたしたちといっしょにアーメンと答えて聖体を拝領してくださいます。 わたしたちも聖体を拝領することによってマリアと同じように生きた聖櫃となるのです。そのとき、わたしたちは「わたしを運んでください。 わたしを必要としている人々にわたしを運んでください」というキリストの叫びを聞かなければなりません。 わたしたちは聖体を拝領することによって生きた聖櫃になって、マリアと一緒に愛徳の業において人びとに聖体を運ぶ人になる使命と力が与えられているのです。

「聖体になりなさい」という言葉の中にわたしはこのようなメッセージを読み取ります。

聖体を運ぶ人

ヨハネ6章の前半に大麦のパン5つと魚2匹から5千人が満腹してまだ余るほどにパンを増やされた話があります。 この話につづいてイエスは聖体の意味について話されます。従ってこのパンを増やした話は当然聖体と関連付けて考える必要があります。 パンを増やす奇跡がどうやって行われたのかを詮索するのではなく、その中に含まれる大切なメッセージを読み取らなければならないのです。

わたしたちが聖体を受けるのは自分のためではなく、それを必要としている人々のため、その人たちに聖体を運ぶためであることをこのたとえ話から読み取らなければなりません。 人々のために聖体になりなさい。人々のために生きた聖櫃になりなさい。いただいた聖体を必要としている人々に運ぶ者になりなさい。 このことが、キリストが「取って食べなさい」と言われた食べることの意味なのです。

わたしたちが聖体を受けるのは、自分のためではなく、人々のために受けるのです。 わたしたちが生きた聖櫃となって、換言すれば、わたしたち自身が聖体となって、愛徳の業を通してわたしたちの周りにいる本当に困っている人、貧しい人、飢えている人、霊的に渇いている人、 絶望している人に十字架のキリストを伝えるために聖体を受けるのです。

マリアがエリザベトのところへイエスを運んだように、聖体を受けるわたしたちにもイエスを運ぶ使命が与えられているのです。 「人々のために聖体になりなさい」は言葉を換えて言うならば「人々のために生きた聖櫃になりなさい」です。聖体を必要としている人々に聖体を運ぶ人になりなさいということでしょう。

キリストのために

シモニュベージュ、36歳で亡くなったフランス在住ユダヤ人哲学者

彼女は洗礼を受けるのを前にして「わたしのことを考えるのはわたしの仕事ではありません。 わたしの仕事は神のことを考えることです。わたしのことは神が考えてくださいます。」と言って、自分のために洗礼を受けることはありませんでした。これは一人の深い魂の叫びですね。 御聖体をいただくのは、自分のためではありません。それを必要としている人々のためです。わたしのことは神が考えてくださいます。

わたしが聖体を拝領するのは、わたしのためではありません。人びとのために聖体になって、人びとのために聖櫃となって、聖体を必要としている人びとに聖体を運ぶためです。 十字架や聖体の神秘はいくら黙想しても悟りは得られない。ただ信じて祈る。キリストの神秘を生きさせてくださいと祈る。「全てにおいて聖霊に聞き、従いなさい。」 聖霊によってのみ、わたしたちはこの十字架の神秘に触れ、あずかることが出来るのです。イエスの苦しみが聖体の秘跡の中に含まれていることを忘れてはならない。

白い清らかな聖体の中にキリストの鞭で砕かれ体とそこから流れる血を、キリストの苦しみを見なければならない。血にまみれたキリストの体を拝領するということを忘れてはならない。 これが本当の聖体拝領なのです。マタイ福音書20‐21に「わたしが飲もうとしているこの杯を飲むことが出来るか」とイエスは言われます。これは最後の晩餐の話ではない。 イエスはわたしたちに「かつてわたしが飲んだ杯をのむことができるか」と言って、わたしたちに毎日いろんな形で十字架を示される。 この十字架をうけるということがわたしたちにとってもう一つの大切な聖体拝領であることを忘れてはならない。

ミサの中でいただく聖体の力によって、聖体を必要としている人びとのところに聖体を運ぶ使命があるのと同じように、日常の生活の中で「かつてわたしが飲んだ杯をのむことができるか」 と言って差し出される十字架を受け入れることが、もう一つの聖体拝領になるのです。この聖体拝領なしにはミサの中での聖体拝領は完成しない。

第一の聖体拝領は、ミサの中で御言葉を聞くことによってわたしたちの魂に必要な糧をいただく。ミサで読まれる福音の御言葉はイエスキリストそのもの。これが第一の聖体拝領です。 ミサの時にいただく聖体拝領が第二の聖体拝領。現実の日常生活の中で飲む杯は第三の完結されるべき聖体拝領と言える。マザーテレサは「わたしは日に二回聖体拝領します。 最初はミサの中で、もう一つは路上で見捨てられた人たちを介護することによって彼らから聖体をいただきます」と言われた。有名な話ですね。 人から侮辱をうけたときにその人のために祈り、仕返しをしないこと。相手に変わるように要求するのではなく、自分のほうから変わること。 あなたの悪口を言い、あなたを裏切った人々のために自分の体を裂かれるままにすること、人々への愛のために自分の血を流されるままにする。 これはイエスが飲んだ杯を飲むこと。イエスと共に十字架にかかることですね。共同体の不足分を補うよう聖霊と共に働くこと、これも十字架を受けることです。

全能、永遠の神よ、
今、わたしたち水島教会は創立50周年を迎えています。この50年間、わたしたちを育み、導き、一人一人に与えてくださった溢れるほどの恵みに感謝いたします。 神よ、あなたがこれからの水島教会にどのような御計画と御望みをお持ちなのか、わたしたちに語ってください。わたしたちは、その御旨に従って歩む力と導きをあなたが与えてくださると固く信じています。 水島教会が、この地においてあなたの大いなる愛の証しとなり、キリストの光をまわりに輝かせ、あなたの栄光を現すことができますよう、溢れるほどに聖霊をわたしたちに注いでください。主イエス・キリストによって。アーメン

文責 H.Y

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