水島教会献堂50周年記念  黙想会(前半)

  さあ、立て、ここから出かけよう

9月13日(土)から14日(日)に赤波江健一神父(聖パウロ修道会)を迎え水島教会にて黙想会が開かれました。今回はその第一部です。

今回の黙想会に与えられたテーマは「さあ、立て、ここから出かけよう」というイエス様の御言葉です。 この言葉だけを聞くと「さあ、行くぞ」と勇ましい言葉に聞こえるのですが、イエス様が恐れを感じながら本当は行きたくない、受難への道、十字架に向かってここから出かけようと弟子たちに呼びかけているのです。

わたしの司祭としてのここ十年来の重要なテーマは十字架です。ですから、この十字架賞賛の日にこのテーマが与えられたことを摂理的なもの、わたしにとって恵みの時が与えられたと感じています。 わたしが日ごろ考えている十字架と合わせながらこの黙想会を進めてまいります。

  十字架の神秘

十字架を賞賛する、十字架を仰ぐということはどのように捉えたらいいのでしょうか。十字架と賞賛というこの2つの言葉が一つになっているが、意味からするとそぐわないのではないか。

十字架と聞いたときに何をイメージしますか?十字架、それは、苦しみ。十字架、それは、出来ることなら担いたくない。十字架、それは、ないにこしたことはない。 十字架、それは、仕方がないから受けざるを得ない。とにかく常識的に言ってあまり喜ばしいものではない。否定的にとらえられる場合が多い。これは常識的な十字架に対するイメージでしょう。

十字架を賞賛するとはどういうことでしょうか?受けたくないものを賞賛するとは、矛盾ですね。しかし、教会は十字架を賞賛するようにと呼びかけています。十字架は賞賛されるべきものですよという意味が含まれています。 今日の福音で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言われています。

さて、十字架を賞賛する、十字架を仰ぐということをどのように理解したらいいのか。 四旬節最後の週、聖週間のクライマックス聖金曜日にはどこの教会でも十字架礼拝がありますが、ただ単に十字架の前で深く頭を下げるだけのパフォーマンスに終わるならば、本当の信仰から出たものとは言えない。 本日の集会祈願の中で祈りましたね。十字架の神秘を信じると祈ったのですが、もっと大切なことは十字架の神秘に触れ、あずかることです。十字架の神秘を生きることです。これが十字架を賞賛するという意味です。 それはどういうことかは、次のイエス様の教えの中にあります。(マタイ16:13-25)

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

その後、イエスはご自分の死と復活を予告します。

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

イエスは振り向いてペトロに言われた。 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16::13-24)

イエスは十字架を否定するペトロを叱った。ペトロのこの人間的な思いは、良かれと思って言ったかもしれないが、十字架を否定する思いはサタンの思いであると退けられた。その後でイエスは言われます。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。 わたしたちにとって十字架を賞賛するとか、礼拝するとはキリストの十字架に共感するということであり、与えられた十字架を担うということ、これが十字架を賞賛し、礼拝することです。

  タレントの話 マタイ25章

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。 ・・・中略・・・さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。 『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 ・・・中略・・・一タラントン預かった者も進み出て言った。 『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。・・・中略・・・さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

  だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

「持っているものは更に与えられて豊かになる」は分かりますが、「持っていないものは持っているものまでも取り上げられる」とはどういうことでしょうか? キリストのために商売をしようという気持ちを持っているか、持っていないかが問題だ。わたしたちに才能が与えられても必ずしもキリストのために使うとは限らない。自分の証のために使いたいという誘惑がある。

キリストと自分を同時に証することはできない。このタレントは才能ではなく、毎日毎日与えられる十字架のことではないか。それはキリストを証するために与えられる。キリストのために商売をしたい。 その商売の実りをキリストに捧げたい。そういう気持ちがあれば、更に与えられ、わたしたちの思いをはるかに超えた素晴らしいものに変えられる。その気持ちを持っていなければ、持っている1タレントまでも取り上げられる。

聖霊がこの神秘を理解させてくださるよう祈りましょう「全てにおいて聖霊に聞き従いなさい」。聖霊だけがわたしたちをこの十字架の神秘にあずからせてくださるのです。

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