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待降節とは?
アンリ神父

待降節に入ってから「あけましておめでとうございます」という挨拶をすると、確かに皆様をびっくりさせるかもしれません。 その時、「アンリ神父はどうしてこの挨拶をしたのかな」と自分に問いかけることになるのです。なぜなら「明けましておめでとうございます。」という 挨拶は元旦に使われるからです。でもなぜわたしが待降節の初めにこの挨拶を使うのでしょうか。

事実、教会の暦が待降節の第1主日から始まり、年間第34主日土曜日の朝ミサで終わります。 待降節という用語は、「到来」を意味する語の「ADVENTUS」の訳語です。 待降節に入ると教会の典礼歴は新しい第一ページを開きます。新年といえば、重々の行事と騒音のうちに にぎやかに祝われるのが普通ですが、教会典礼における新年は、極めて荘厳で静かな雰囲気のうちに開始されるのです。 過ぎ去った一年の生活を振り返り、霊的に失敗したことや不成功に終わったことなどを反省し、 その原因を考察すると同時に、父なる神の憐れみに信頼して、希望のうちに再び出発すること、これが待降節の主な目的です。

エルサレムの聖チリロの教えによると、主の来臨には二つの到来があります。 第一の到来では、長い間待望され、期待されていた救い主が、神のお望みの時にベツレヘムの馬小屋の中で生まれ、 飼い葉桶の中に寝かされ、弱々しい泣き声を上げる赤ちゃんの姿で世に来られたことを記念するのです。 これは約二千年前、歴史的に行われた出来事ですが、第二の到来では天使たちのラッパの響きのうちに 「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られる」(ルカ21、27)ことになるのです。

待降節に入ると、各教会では馬小屋が飾られています。ある教会ではお御堂の外と中です。お御堂の外の馬小屋の飼い葉桶には 幼子のイエス様のご像が既に置かれていますが、中の飼い葉桶にはクリスマスイブのミサの時に置かれます。しかし赤ちゃんのイエス様が 生まれてくる場所はお御堂の外と中の馬小屋の飼い葉桶だけではなく、もう一つの飼い葉桶があります。これは私たち一人ひとりの心のことです。 生まれて来る赤ちゃんのイエス様は何よりまずわたしたちの心で迎えなければならないと思います。そうしないと、お御堂の外と中の赤ちゃんのイエス様の ご像は儀式的なレベルにしか残らないと思います。

だから、聖ベルナルドは第一の到来と第二の到来の中間に第三の到来があると教えています。 第三の到来は五官に触れない形で絶えず行われています。 主はわたしたちの心の扉の前に立ち、戸を叩きながら開けてくれるのを待っておられるのです。 万一、わたしたちが神以外のことに没頭し、世俗的騒音の中で、五官の楽しみを求めることがあるとすれば、 主の訪れに気づかず、主の声を聞き分けることもできなくなってしまうことでしょう。

主の声を聞くためには、まず心を開くことが大切です。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑なにしてはならない。』」(詩95:7-8)と詩編記者は言っています。 心を開くということは、主が言われることは何でも受け入れる心を持つことであり、主のお望みどおりに生きる心構えを持つことです。 聖ヤコブは「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:21-22)と言っています。

何らかの形で(聖書朗読・勉強会・ご聖体・出会う人々など)わたしたちの心の扉の前に立ち、 戸を叩きながら声をかけておられる主にいつでも聖母マリアのように「はい」と答えることができるように、 霊的には常に目覚めた心の状態を保たなければなりません。 そうすれば、毎日が絶え間なく待降節、しかも最良の待降節となっていくことでしょう。

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